みんなちがって・・・
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
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前回、『阿弥陀経』の一節(青色青光・・・)を紹介しましたが
「多様性を認め合う」ことが大切と最後に書かせていただきました。
これはなかなか簡単には進まないこともあるかとは思いますが、
世界的に、意識は向けられつつあるように感じます。
SDGsの17項目の5番目にも
「ジェンダー平等を実現しよう」とあります。
(その他項目にもいえるところはありますが)
日本でも、近年の赤ちゃんの名づけランキングを見ると
ジェンダーフリーな、ジェンダーレスな名前が多いようです。
(具体的には検索してみてください)
みんな違うからこそお互いに尊重し、よりよい世界をつくっていく。
このことが、たとえばお子さまにも
とてもイメージしやすいと思える詩があります。
大変有名な、教科書にも載るもので恐縮ですが
青色青光・・・の話をさせていただく時に
どうしても紹介したくなり、今回も、金子みすゞさんの
『私と小鳥と鈴と』を載せさせていただきます。
十分ご存知と思いますが、「多様性を認め合う」ことに思いをはせて
もう一度味わってみていただければ幸いです。
『私と小鳥と鈴と』 金子みすゞ
私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地面(じべた)を速くは走れない
私がからだをゆすっても
きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ
鈴と 小鳥と それから私
みんなちがって みんないい
2022-06-28 08:00:00
青色青光
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今日は、私たちがいつもお唱えするお経『阿弥陀経』の一節を紹介したいと思います。
・・・池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黃光 赤色赤光 白色白光・・・
・・・ちちゅうれんげ だいにょしゃりん
しょうしきしょうこう おうしきおうこう
しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう・・・
これは、『阿弥陀経』のなかで、極楽浄土のありさまを説いた部分に出てきます。
池中蓮華 池の中の蓮の花は
大如車輪 大きさは車輪のようで
青色青光 青いもの(花)は青く光り
黄色黄光 黄色いものは黄色く光り
赤色赤光 赤いものは赤く光り
白色白光 白いものは白く光っている
という意味です。
理想の世界である極楽浄土では
「それぞれが、ありのままで、輝いている」ことを示します。
最近でこそ、多様性を認めようという考えが一般的になりつつありますが
何千年も前からこのように説かれているのは、やはり真理を示されているように
考えさせられます。
社会においても教育現場においても家庭においても
型にはめようとするのではなく、個性、多様性を認め合い
それぞれが「自分らしさ」を存分に発揮できる世の中になってほしいものですし
実現に向け、私たちもできることはしないといけないなと思わせてくれる
お経の一節でした。
2022-05-31 08:00:00
お大師さまのおことば
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先日、京都の真言宗総本山、東寺を参拝してまいりました。
お大師さま(弘法大師=空海)の今月のおことばとして
こんなことばが紹介されていました。
「珠(たま)を持てば善念を生じ、
剣を把(と)れば殺心(せっしん)の器。」
人間、気づいていないようでも、環境や、かかわる人、
日々口にする、また耳にすることばに
多大な影響を受けて暮らしています。
ずっとニコニコしている人といると心にゆとりができたり
その反対のこともあります。
また極論、戦争中では、穏やかにいるのはかなり難しいことです。
よいものに触れる時間をできるだけ増やすことも大切です。
それは人によっては読書であったり、森林浴であったり
するかもしれません。
人はみな、影響を与え合って生きているので、
よいふるまいのできている方と接する時間を増やすことも
人生を好転させるきっかけであったりします。
わたしのいつもお話させていただくことのひとつ、
「和顔愛語(わげんあいご)」を身につけることも
この前者のサイクルに入る、ひとつの方法であると思います。
日々、どういった時間を過ごしていることが多いか
一度振り返ってみていただければと幸いです。
2022-04-26 08:00:00
生死
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前回、「執着しないこと」が大事という話を書かせていただきました。
これは頭でわかっていてもなかなか難しいことで、
「苦しみ」から逃れるためには、
あらゆることに「執着しない」ことが必要です。
極論、「生」(生きること)にも執着しないことになります。
「死」を前にして苦しみを感じるのは、生に執着しているから。
ただし、命を粗末にするのとはちがいます。
念仏の元祖である、法然(ほうねん)上人のことばに
「いけらば念仏の功つもり しなば浄土へまいりなん
とてもかくても この身には 思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、
死生(ししょう)ともにわずらいなし」
ということばがあります。
「死生(ししょう)ともにわずらいなし」
という理想の状態になるには
(この場合)亡くなったとしてもお浄土に行けるという確信があると
不安なく人生を送れるということだと思います。
そのためには、毎日、今、ここを、全力で悔いなく
生きなければいけません。
寿命が来たとき「生ききった」と思えるように
自分なりに一生懸命に生きることが
生への執着からすこし離れ、死への恐怖からすこしだけ
離れることのできる方法であると思っています。
すこし難しい話になってしまいましたが、
毎日を大切に過ごすことがいかに大事であるのか
考えていただくきっかけのひとつになればと
みじかいですが書かせていただきました。
2022-03-15 08:00:00
こだわり
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仏教とは?と聞かれた時に
私なりに簡単にお答えすることもあるのですが、
答えのひとつに「執着しないこと」
を挙げさせてもらっています。
「執着」とは、「こだわり」のことで
「こだわり」というと、「こだわりの逸品」とか
いいイメージもあるのですが、
「執着」とは、度を越して「こだわり」すぎる
といったところでしょうか。
江戸から明治時代の禅僧に
原 坦山(はら たんざん)がいう方がいました。
原坦山にまつわるエピソードとして
次のようなものがあります。
仲間と二人で各地を修行して歩いていると、
橋のない川にさしかかりました。
普段なら歩いても渡れそうな川でしたが
雨の後で水かさが増し、渡りにくくなっていました。
そこに困った顔をしている女性が立っていました。
やがてその女性は着物の裾をまくり始めました。
なんとか川を渡ろうとしているようでした。
それを見た坦山が女性にかけ寄りました。
「私が背中におぶって川を越してあげます。」
そういって坦山は女性をおんぶし川を渡り始めました。
向こう岸に着くと、お礼を言う女性と雑談もせず
先へ行ってしまいました。
ここで心中穏やかでないのは、
これを見ていたもう一人の修行仲間。
「修行中の禅僧が女性に触れるなんて」
との思いが頭から離れず、
坦山に対する疑惑の念がいつまでもくすぶっていました。
それはしばらく経っても消えなかったようで、
ついに心の中に留めておくことができなくなってしまい
こう言いました。
「お前は修行中の身だろう。
若い女性をおんぶなんてあってはならない。」
すると坦山はすこし驚いて、大声で笑い出した。
「私はあの女性をとっくに下ろしてきているのに、
お前はまだ背負ってきているのか。」
女性に執着していたのはどちらだったでしょうか。
というお話です。
川ではなく、ぬかるみの細い道、としたものや
修行仲間でなく、師匠と弟子、とした話、
女性は、子連れであったり少女であったりする話もありますが
大意は同じストーリーです。
このお坊さん、原坦山は、おそらく若い女性でも子どもでも
お年寄りでも、同じようにおぶって川を渡ってあげたでしょう。
困っている人を助けることのほうが大事なのに
修行仲間は「女性」ということに「執着してしまっていた」
というわけです。
なにごとも「執着」しすぎると、正しい判断ができなかったり
「苦しみ」を生みだす元になります。
うまくいかないことがあった時は
なにかに「執着しすぎて」いなかったか
一度立ち止まって考えてみていただければと思います。
2022-02-22 08:00:00