いつもこうしん堂ブログ「お坊さんの1分説法」を
お読みいただきありがとうございます。
仏教とは?と聞かれた時に
私なりに簡単にお答えすることもあるのですが、
答えのひとつに「執着しないこと」
を挙げさせてもらっています。
「執着」とは、「こだわり」のことで
「こだわり」というと、「こだわりの逸品」とか
いいイメージもあるのですが、
「執着」とは、度を越して「こだわり」すぎる
といったところでしょうか。
江戸から明治時代の禅僧に
原 坦山(はら たんざん)がいう方がいました。
原坦山にまつわるエピソードとして
次のようなものがあります。
仲間と二人で各地を修行して歩いていると、
橋のない川にさしかかりました。
普段なら歩いても渡れそうな川でしたが
雨の後で水かさが増し、渡りにくくなっていました。
そこに困った顔をしている女性が立っていました。
やがてその女性は着物の裾をまくり始めました。
なんとか川を渡ろうとしているようでした。
それを見た坦山が女性にかけ寄りました。
「私が背中におぶって川を越してあげます。」
そういって坦山は女性をおんぶし川を渡り始めました。
向こう岸に着くと、お礼を言う女性と雑談もせず
先へ行ってしまいました。
ここで心中穏やかでないのは、
これを見ていたもう一人の修行仲間。
「修行中の禅僧が女性に触れるなんて」
との思いが頭から離れず、
坦山に対する疑惑の念がいつまでもくすぶっていました。
それはしばらく経っても消えなかったようで、
ついに心の中に留めておくことができなくなってしまい
こう言いました。
「お前は修行中の身だろう。
若い女性をおんぶなんてあってはならない。」
すると坦山はすこし驚いて、大声で笑い出した。
「私はあの女性をとっくに下ろしてきているのに、
お前はまだ背負ってきているのか。」
女性に執着していたのはどちらだったでしょうか。
というお話です。
川ではなく、ぬかるみの細い道、としたものや
修行仲間でなく、師匠と弟子、とした話、
女性は、子連れであったり少女であったりする話もありますが
大意は同じストーリーです。
このお坊さん、原坦山は、おそらく若い女性でも子どもでも
お年寄りでも、同じようにおぶって川を渡ってあげたでしょう。
困っている人を助けることのほうが大事なのに
修行仲間は「女性」ということに「執着してしまっていた」
というわけです。
なにごとも「執着」しすぎると、正しい判断ができなかったり
「苦しみ」を生みだす元になります。
うまくいかないことがあった時は
なにかに「執着しすぎて」いなかったか
一度立ち止まって考えてみていただければと思います。