正しく見る
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
先週から「八正道」の話をはじめています。
今日はその第一、「正見」について
「正見(しょうけん)」とは、
ものごとを正しく見なさい、偏見なく見なさいということです。
フィルターや色眼鏡をかけず、あるがままを見る。
偏見や先入観、好き嫌いの感情なしに見ることをいいます。
その際には、われわれが、また世の中が、
常識だ、当然だと思っていることがあっても、
それをうのみにせず、
本当に正しいといえるのか、
立ち止まって考えてみるべきだということもいえます。
たとえば戦時中の日本では、
「富国強兵」が教育されたり、
「治安維持法」によって言論の自由がないがゆえに、
戦争で相手国の兵士を殺すことが正しいことだと
考える人も多かったといいます。
それが世の中の「常識」であったとしても、
それは正見とはとてもいえません。
また、すべてのものごとは、無常(移り変わっていること)
だということを理解した上で、ものを見なさい、
ということも「正見」ではよく言われます。
たとえば、昨日できなかったことが、今日もできないとは限らないので、
常に新鮮な目で、ものごとを見なければいけません。
最後に、「ものごとを偏見なく見なさい」ということを
あらわした言葉はないかと考えてみましたが、
たとえば、「人を見かけで判断しない」
という教えなどは、まさに正見の考え方ではないかと思います。
2015-10-20 08:13:27
正しい道
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は「八正道」の話を。
お釈迦さまが、悟りに至るための方法として
我々に示してくださったものの1つに
「八正道(はっしょうどう)」があります。
「八正道」とは、八つの正しい道という意味です。
一、正見(しょうけん)
ものごとを正しく見なさい、偏見なく見なさいということ。
二、正思惟(しょうしゆい)
正しい考え、正しい思いをもちなさいということ。
三、正語(しょうご)
正しい言葉、言葉使いをしなさいということ。
四、正業(しょうぎょう)
正しい行いをしなさい、戒を守りなさいということ。
五、正命(しょうみょう)
正しい生活、正しい仕事をしなさいということ。
六、正精進(しょうしょうじん)
正しい努力をしなさいということ。
七、正念(しょうねん)
正しい気づきをもちなさいということ。
八、正定(しょうじょう)
正しい瞑想、正しい精神統一をしなさいということ。
なんとなく想像できますでしょうか。
次回から、八つそれぞれの解説をしていきたいと思います。
2015-10-13 07:00:00
三階建ての家
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は、昔のインドのお金持ちの話をします。
ある村の大金持ちが旅に出て、
大都会に行きました。
都会のお金持ちに誘われて遊びに行ったのだそうです。
都会なので、そのお金持ちは三階建ての家に住んでいました。
村のお金持ちはびっくりしました。
大変広い家に住んでいたのですが、
その村には二階建ての建物すらなかったからです。
村に帰ると、早速大工さんを呼び、
「三階建ての家を作ってくれ」と頼みました。
大工さんもはじめてのことなのではりきって、
まずは三階建てにかなう土台を、と
作り始めました。
しかし、なかなか工事は進みません。
1か月たっても、柱も建っていない。
「もう少し早くならんのか。」
「急ぎますが・・・」
といった具合です。
待てども待てども三階建ての家は完成しません。
ついにお金持ちがしびれを切らしました。
「おい、どうなっているんだ。」
「今、二階を作っているところです。」
「なんだと、おまえはクビだ、わしは三階を作れと言っているんだ。」
と怒鳴り散らしたという話があります。
単純な話のようですが、意外と考えるところはあります。
私たちは、つい結果ばかりを求めてしまうということです。
基礎、土台作りをせずして、よい結果を求めてしまう。
少し道徳的なようですが、
仏教の基本に「縁起(えんぎ)」の教えというものがあります。
ひとことで言うと、
すべてのもの(結果)には、原因がある、ということです。
今回は、努力もせずによい結果が得られることはない、
ということを教えるこばなしの紹介でした。
2015-10-06 08:10:11
毒矢
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
先週はお彼岸に急な法務が重なってしまい、
お休みさせていただきました。
また今週からどうぞよろしくお願いします。
もしかすると、以前にも似た内容を書いたかもしれませんが、
今日は「毒矢のたとえ」について書きたいとおもいます。
お釈迦さまに新入りの弟子が
死後の世界や輪廻転生(りんねてんしょう)について
詳しく詳しく訪ねた物がおりました。
お釈迦さまは、対機説法(たいきせっぽう)と言い、
その弟子ごとに、合った説法をされていましたが、
死後の世界については多くを語られませんでした。
しかし、その弟子の質問に対しては、
次のような「毒矢のたとえ」で諭されたといいます。
毒矢に射られた男がいる。
そこへ医者がかけつけて、矢を抜こうとした。
だが、男は頑固者で、こう言った。
「矢を抜いてはいけない。
抜く前に、それを射た者が、
誰で、何の目的で私を射たのか、
またその弓はどんな素材でできていたのか、
そしてどんな種類の毒が塗られていたのか、
すべてはっきりしないうちは矢を抜いて治療してはいけない。」
こんな頑固者に出会ったらどう思うか?
はい、先に矢を抜かなければいけません。
そうしないと、何も知らないうちに死んでしまいますから。
このたとえは、2つのことを示しています。
1つは、お釈迦さまはこの世は苦だと言われています。
この世こそが毒矢であり、
その後(死後)どうなるかを考える前に、
現在、この世の苦(毒矢)を取り除くことが先決だということ。
もう1つは、苦からのがれ、さとりを得るための修行は、
(仏教を)すべて知って、理解してから行うものではないということ。
知って理解してから行おうとすれば、理解できないうちに
人生は終わってしまう、ということです。
前者の理解は、
【死んだらどうなるか】とらわれている人に向けて
よくお伝えします。
仏教は決して死にまつわるものではなく、
よりよい生き方を教えるものです。
後者の理解は、今風に言うと、
【目の前のことからまずはやってみる】
ということではないでしょうか。
少しかみ砕いて言い過ぎているかもしれませんが、
すべてを理解してから動くのではなく、
行動しながら考えていくことが、
ものごとを早く進める秘訣ではないかなとおもいます。
2015-09-29 07:20:41
やめられない
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
いつもお読みいただいてありがとうございます。
先週、人生は苦だ、ということを書きました。
では、そうなってしまうのは何故か、
ということです。
その原因の一つが、人間は、執着(しゅうちゃく)してしまう
ということだと、お釈迦さまは教えています。
煩悩のひとつに、貪(とん)というものがあります。
サンスクリット語で、トリシュナーといい、
訳すと、執着することです。
あるところに、農家の人がいました。
道端に、乾いた牛糞がたくさん落ちているのを見つけて、
「これはいいものがあったぞ、いい肥料になるだろう」と思い、
山のように糞をかき集めて、重いのを我慢して、家に向かっていきました。
ところが途中で大雨が降ってきて、
背中に背負っていた山のような糞は、雨水のために溶けて流れ出してしまいました。
臭い糞の汁は、彼の全身に流れ、ひどい臭いと汚さでしたが、
彼はせっかくここまで運んできたのだと思うと、
どうしても捨てられず、彼はベトベトの糞を担いだまま歩き続けました。
家についた頃には、牛糞は跡形もなく、
彼はひどく汚れているだけでした。
人は、一度何かを始め、それが快感であると、
それが自分にとって意味のないことや、悪いことだとわかったとしても、
なかなかやめられないものです。
人生の苦を軽くする方法の一つは、
この「執着」から離れることだと教えられています。
なかなか簡単にできることではありませんが、
自分が今そうなっていないか振り返ってみるだけでも大切なことだとおもいます。
時々、思い返してみてください。
2015-09-15 07:25:24