息子を生き返らせて
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
週末、こうしん堂の先生と和歌山ジャズマラソン
に参加させていただきました。
何年かぶりに走りましたが
(5キロと、長い距離ではなかったので)
天気もよく、気持ちよく走ることができました。
が、2日たって、足が痛くてたまらない朝です。
今日もお釈迦さまがされた説法の話をかこうとおもいます。
キサーゴータミーという女性がいました。
彼女は、かわいい自分の一人息子を死なせてしまい、
悲しみのあまり気が狂いそうになっていました。
我が子の死体を抱き、何としても生き返らせてほしいと
修行者や仙人を訪ね歩きましたが、かなえられず、
お釈迦さまのところを訪ねました。
お釈迦さまはこうおっしゃいました。
「わかった、息子の命を取り戻してあげよう。
ただし、キサーゴータミーよ、
これから、一度も死人を出したことのない家に行って、
ひと粒の芥子(けし) の種をもらってきなさい。
いいですか、一度も死人を出したことのない家の、芥子の実を
もらってくれば、息子の命をよみがえらせることができる。」
キサーゴータミーは喜んで、家々を訪ねました。
どこの家も、芥子の実などお安いご用だといってくれるのですが、
「いままでに一人の死人も出したことはないですか?」と聞くと、
どの家の人も悲しい顔になり、
亡くした家族のことを語り始めるのでした。
次から次へ、村中の家々を回っても、一軒として
死人を一人も出したことのない家などありませんでした。
キサーゴータミーは、疲れ果ててお釈迦さまのもとへ帰り、
こう言ったといいます。
「お釈迦さま、一人も死人を出したことのない家などありません。
どの家も、両親や兄弟や子どもを亡くして、深い悲しみを経験し、
その苦しみに耐え、やがて生きる力を取り戻しています。
お釈迦さま、よくわかりました。
この世に生まれたものはいつかは死にます。
私の息子を生き返らせることはできません。
私もこの悲しみに耐え、生きつづけてまいります。」
2014-10-28 08:03:52
死にものぐるいで・・・
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は塚原卜伝(つかはらぼくでん)の話を紹介します。
塚原卜伝は、戦国時代の剣豪として有名ですが、
卜伝に弟子入りを志願した若者がいました。
「わたしは一生懸命に修業します。何年ぐらいで免許皆伝になれますか?」
「そうだな、おまえはなかなか筋がいいから、5年でなれるだろう。」
若者は、
「では、寝食を忘れて修業に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか?」
「それだと10年かかるな。」
若者はおかしい、と思って
「では、死にものぐるいで修業すると、何年で免許皆伝になりますか?」
「おいおい、それだと一生かかっても無理だよ。」
仏教には「中道(ちゅうどう)」という教えがあります。
両極端になるな、という意味ですが、
修業をするにあたり、怠けているのは当然だめですが、
寝食を忘れて、また死にものぐるいで、というのは、極端ですね。
極端なものは長続きしにくい、
それなら、適度に努力を重ねるのが最も近道であるというのです。
人生にあせりは禁物、とよく教えられました。
ゆっくり確実に歩んでいきましょう。
2014-10-21 09:35:26
うさぎとかめ
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
こんにちは!
更新がおそくなってしまい申し訳ありません。
今朝、通学路を通る小学生がうさぎとかめの話をしていました。
今時の小学生でもそんな話するんだなと少し感心してしまいましたが、
うさぎとかめの話は、
走るのが速いうさぎが、油断して昼寝をしているうちに、
地道に歩いてきたかめが抜かして競争に勝った。
努力を続けてうさぎに勝ったかめがえらいというお話です。
しかし、この話を、仏教の誕生したインドで話すと、
意外な反応がかえってきた、
と、以前にも紹介した、仏教学者のひろさちやさん
がおっしゃっていたことがあります。
インドでは、
うさぎがかわいそうだ、という反応が多数だったというのです。
競争をしている途中で、寝てしまっているうさぎを
どうしてかめは起こしてあげないんだ、
と口をそろえて言うというのです。
油断していた方がわるいかもしれない。
でも、たとえば仕事で、ライバルが油断して失敗しそうなところを見たとします。
そんな時、しめしめと思うのではなく、
助けてあげようとする方が仏教的です。
どちらの考えが正しいというわけではありませんが、
経済社会の日本では、このインド的な発想が
少し足りていないのかもしれませんね。
2014-10-14 12:57:33
かおり
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日はまた、お釈迦さまとその弟子の話
を書きたいとおもいます。
お釈迦さまが、一人の弟子に、
道に落ちている紙くずを拾わせて、
「その紙はいったい何を包んであったかわかるか。」
と聞きました。
「いえ、何も残っていないのでわかりません。」
「まあ、よく考えてみなさい。」
弟子は困って、においをかいでみました。
「わかりました、お香を包んでいた紙です。
大変いいかおりが残っています。」
今度は道に縄が落ちていました。
お釈迦さまは別の弟子に同じように聞きました。
「その縄は何を結んであったかわかるか。」
弟子はさきほどを真似てにおいをかいでみました。
「魚です。大変生臭いので。」
お釈迦さまは、深くうなづき、
「紙も縄も、お香に近づけばいいかおりがし、
生臭いものに近づけば生臭く、自然に染まっていく。
お香や魚の形は今はなくても、
いいかおりや臭いにおいが残って
元がどうだったか知ることができる。
すべてのものは、何かに触れれば必ず何か残っていく。
おそろしいことだ。
そして、紙も縄も、染められていくことを
それ自身は気づかないのだ。
それがもっとおそろしいことである。」
とおっしゃったそうです。
わたしたちは日々、色んな方々と共に暮らしていますが、
自分では気づかないうちに、
まわりの方々の「かおり」を受け、
また、自分自身の「かおり」を周囲にふりまいて
暮らしています。
いいかおりを残せるようになりたいものですね。
2014-10-07 09:00:00
困った時の神頼み
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は、南無(なむ)について
書きたいとおもいます。
南無阿弥陀仏、南無大師遍照金剛、南無妙法蓮華経
などありますが、この南無とは、
「帰依します」、「すべてをお任せします」
という意味です。
インドの挨拶は「ナマステ」と言います。
「ナマ」とは「なむ」と同じで、帰依します、
「ステ」とはあなたの意味で、
「あなたに帰依します」という意味になります。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依します、
阿弥陀仏にすべてをお任せします、という意味です。
人間の力ではどうしようもならないことがあります。
もちろん、努力することは大切ですが、
努力したからといって報われるかどうかはわかりません。
また、天候や天災といった自然のことなども、
人間の思うようにいくわけではありません。
人間の力を超えた存在を信じることで
高慢にならず、謙虚になれるのだとおもいます。
また、困ったときの神頼み、と言いますが、
神頼み、神さまや仏さまにお願いごとをしたことは
誰にでもあるかと思います。
その時に、叶えばもうけもの、
という気持ちでお願いをする場合も
あるかもしれませんが、
本当に叶えたいことがあって、
その大切なことのために一心にお願いする、
そんな気持ちの中には、
神頼みしたからご利益があるだろう、
これで安心だ、という考えはないはずです。
一心にお願いして、すべてを任せきろうという思いで
神さまや仏さまにお願いする時、
かならずその人は自分の全力を尽くしていると思います。
すべてを任せる、というのは、本当にすべて放り投げるわけではなく、
自分にできることを精一杯しながら、
その結果については(どうなっても)お任せします、
そういった気持ちが「なむ」の中には
含まれているのかなあ、と思っています。
2014-09-30 09:16:26