お盆
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
暑さが厳しくなってきましたね。
それと同時にお盆が近づいてきました。
今日はお盆について書こうとおもいます。
お盆とは、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という行事です。
盂蘭盆会とは、
お釈迦さまの弟子に、目蓮(もくれん)という人がいました。
目蓮尊者(そんじゃ)は、神通第一(じんづうだいいち)と称され、
お釈迦さまの弟子の中で、神通力が最もすぐれていると言われていました。
目蓮尊者は、その神通力で、亡くなった自分の母は、
その後どの世界に行っているだろうと、探します。
あれだけ自分に優しくしてくれた母だから、きっと極楽に行っているだろう
と極楽を探しましたがいません。
次にいいところだとされる、天界を見渡してもいません。
そして、人間界、阿修羅(あしゅら)界、畜生(ちくしょう)界と
順に見ていっても、目蓮尊者の母はいませんでした。
まさか、と思い、餓鬼(がき)の世界
(そこにいる人はみな、やせ細っていて、常にお腹をすかせた状態で、
物を食べようとした瞬間、その物は消えてなくなる、という
地獄の次に苦しい世界とされています。)
を見てみると、そこには、お腹をすかせて苦しそうな
母親の姿がありました。
どうしてこんなことになっているのでしょうか、
とお釈迦さまにたずねると、
目蓮尊者の母は、我が子である目蓮尊者には優しかったけれども、
我が子がかわいいあまり、物を分けるときに、他の人の分まで取ったり、
目の前に困っている人がいるのに食べ物を与えず、我が子にあげようと
してしまったりしていた。だから餓鬼道に行ったのだよ、
と言われました。
それでも、自分を優しく育ててくれた母親を
なんとか救う方法はないでしょうか、とたずねると、
お釈迦さまは、
(旧暦)7月15日の、僧自恣(そうじし)の日、
僧自恣の日とは、お坊さんが雨期の90日間の修行を終える日
のことですが、
その日に、修行を終えた僧を集めて、食事などの供養をしなさい。
(母親は、目蓮かわいさに、他の人に施しができていなかったから、
ということのようです。)
すると、あなたの母親だけでなく、餓鬼道で苦しんでいる者みなが
救われるであろう、と言いました。
目蓮がそのようにすると、母親をはじめ、苦しんでいる人々が救われたそうです。
それ以来、旧暦7月15日は、
ご先祖を思い、供養をするということが定着していきました。
旧暦なので、今のこよみでは、8月の中旬になるわけです。
(関東などでは、そのまま7月の中旬に行われているところが多いです)
今日は、お盆の由来を紹介させていただきました。
来週も引き続き、お盆のはなしを。
2014-07-22 09:00:00
地獄と極楽のありか
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は、白隠禅師(はくいんぜんじ)という
有名な禅僧のお話をしてみたいと思います。
江戸時代のこと、彦根藩に、織田信茂(おだのぶしげ)
という武士がいました。
彼は、白隠禅師のもとを訪ね、
「私には、地獄とか極楽というのがよくわかりません。
いったいどこにあるのでしょうか。」
と聞きました。
白隠禅師は、
「武士のくせに地獄を気にするとは、そなたは腰抜け武士じゃな。」
と言い返しました。
織田信茂は「腰抜けだと!」と怒り、刀に手をかけましたが、
禅師は何食わぬ顔で、「どうした、腰抜け。」
と続けます。
信茂はいよいよ怒り、「なにを!」と刀を抜き、
禅師に斬りかかろうとしました。
すると白隠禅師はひょいと身をかわし、
「それが地獄じゃ!」と叱りつけました。
織田信茂は、はっと気がつき、
「一瞬の怒りで身を滅ぼす。これが地獄ということですか。
大変失礼なことをいたしました。お許しください。」
と心から謝りました。
すると白隠禅師はにっこりと笑い、
「それが極楽なのじゃよ。」
とおっしゃったそうです。
地獄や極楽というのは、私たちの心の中にもあるというわけです。
怒りに身をまかせ行動してしまったら、
その場は地獄のようになるでしょう。
しかし、素直に非を認め、相手を尊重する気持ちが生まれたら、
そこは極楽のようになるでしょう。
すこし前に、「地獄と極楽の食堂」の中でもお話しましたが、
同じ場所でも、我々のこころ1つによって、
地獄にも極楽にもなるというわけですね。
心の持ち方がいかに大切か、というお話を
先週に引き続き、紹介させていただきました。
2014-07-15 09:00:00
四人の妻
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
今日は、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』というお経に出てくる
「四人の妻」というお話を紹介したいと思います。
あるところに、四人の妻をもつ男がいました。
その男が、遥か遠くに旅をすることになりました。
そこで、彼は、妻たちに同行を頼みました。
まずは、彼が心底愛し、常に寝食を共にし、
いつも細やかな気配りをしてきた第一夫人です。
しかし、彼女は彼に同行することを断りました。
そこで、男は第二夫人を誘いました。
男は時によっては、この第二夫人の方を
愛している時もあったかもしれません。
必死に手に入れた彼女でした。
しかし、彼女にも同行を断られました。
次に男は第三夫人に同行を頼むのです。
この第三夫人を、男は時々思い出したように愛していました。
一緒にいると心地が良いと思っていました。
しかし、彼女の返事は、
「町はずれまでお見送りします。」というものでした。
最後に第四夫人です。
この第四夫人は、男に生涯尽くしてきたのですが、
男の方は見向きもしなかった妻です。
しかし、そんな彼女が
「よろこんでお供します。あなたについていきます。」
と言ってくれたのです。
男は、第四夫人と旅に出ることになりました。
さて、これは、お経の話です。
何をたとえていたのかと言えば、
男は、あの世への旅に出ようとしていたのです。
そして、第一夫人とは、彼の身体。
第二夫人とは、お金や財産。
第三夫人とは、家族や友人など。
そして、第四夫人とは、わたしたちの「心」を例えているというのです。
いいことをしよう、というのが仏の教えである、
とらわれないことが大事である、
と書いてきました。
もちろんそれらは大切ですが、
教えにとらわれすぎるのもいけません。
いつもないがしろにしている第四夫人(あなたの心)
を大切にすることも重要なことです。
まずは、自分の素直な「心」を大切にしないと、
いいことなんて続けられないのが人間ではないでしょうか。
時には心の思うままに行動してみるのも、いいことなのかもしれません。
自分の思いを大切にする。
今流行っている、Let it Go 「ありのままに」というのは
そういうことなのかもしれませんね。
2014-07-08 09:00:00
女を背負った師匠
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
W杯、日本負けてしまいましたね。
それでも連日の熱戦に寝不足になってしまいます。
さて、今日はちょっとちがった視点から
「とらわれるな」という話を書きたいとおもいます。
あるおはなしの紹介です。
3人の若い僧侶とその師匠が道を歩いていました。
そこに、小さな川がありました。
川には橋があったはずですが、
どうやら先日の大雨で流れてしまったようです。
橋を渡ろうとしていた妊婦さんが
大変困ってそこにいました。
弟子たちはどうしようかと思いましたが、
仏教には戒(かい)と呼ばれるルールがあります。
今のお坊さんは結婚もしますが、
昔は、女性に触れ合ってはいけないとされていました。
弟子たちは、戒を守り、
すみませんが、と女性を残して橋を渡ろうとすると、
なんと師匠が
「手を貸してやろう」と言って
その女性をおんぶして、川を渡ったのです。
女性は大変感謝しましたが、
弟子たちはおどろきました。
師匠が女性に触れるなんて。
戒を破るなんて。
納得がいかなかったようです。
その後、山道は続きますが、
弟子たちはどうもすっきりしません。
なぜ、師匠は女の人を背負ったのだろう。
いけないとされていることなのに。
半日がたち、日も暮れてきたころ、
どうしても気になるので、
師匠に聞きました。
「どうして、あの時、女性を背負ったのですか?」
「そうです、修行中に女の人に触れるなんて。」
すると師匠は言いました。
「なんだ、おまえたちは、こんなところまで女性を背負ってきているのか。
わしは、とっくの昔に降ろしてきたぞ。」
いつまでも「女性に触れる」ということに
「とらわれていた」弟子たちに対して、
師匠は、その場では、(自分の修行にとってはマイナスの)
女性を背負うことをしましたが、
すぐに切り替え、また修行に励んでいます。
「女性」に「とらわれ」すぎていたのは、
師匠ではなく弟子たちだったというわけです。
もちろん、ルールを守ることは大切なことですが、
一つのことにとらわれすぎては、
いいことができない、という場合もあるようです。
2014-07-01 09:00:00
コップとおしっこの話
カテゴリ : [火]お坊さんの1分説法
おはようございます。
前回書いた「とらわれるな」シリーズを
書いていきたいとおもいます。
今日は、コップとおしっこの話をします。
この話は、仏教学者の、ひろさちやさんという方が
著書の中でおっしゃっていました。
少し内容がちがうかもしれませんが、
1つのたとえ話だと思ってください。
ちなみに、ひろさちやさんの本は、わかりやすくて、ほっとするような
話がされているのでおすすめです。
さて、ここに1つのコップがあります。
あなたは、そのコップにおしっこを入れました。
その後、いつもよりも丁寧に、念入りに、そのコップを洗いました。
あなたは、そのコップで水が飲めますか?(飲みたいですか?)
という話です。
飲めない(飲みたくない)と思ったあなたは、
おしっこが汚いと思うゆえに、
そのコップが汚い、のだと思い込んでしまっています。
それは、「いつもより丁寧に洗った」コップ自体は汚くない
(おしっこが入っていたことを知らない人は
平気で水を飲めるでしょう)のに、
おしっこのイメージで、汚く見てしまっている
ということです。
いつもと同じ(もしくはもっときれいな状態の)コップに、
勝手に、汚いというレッテルを貼ってしまっている。
「とらわれるな」ということは、この「レッテルを貼るな」
ということだと、ひろさんはおっしゃっていたかと思います。
前回書いた、きらいな人がくれたお菓子の話もそうですが、
わたしたちはよく、ものごとを勝手に決めつけてしまっています。
あの人が作った物ならいい物だ、
あの人が勧めるものなんかたいしたことない、
それは、レッテルで決めてしまって、
本質を見ていないのかもしれません。
レッテルやイメージに「とらわれる」ことなく、
そのものの本質を見ようとすることが大切だと教えてくれる話でした。
2014-06-24 09:00:00