早いものでもう3月。
春を感じる日も多くなってきました。
皆様いかがお過ごしでしょうか^^?
私は本を読むのが好きです♪
最近、安達茉莉子さんのエッセイ「私の生活改善運動」を読みました。
今日はその本を読んで感じたことを書かせてもらおうと思います。
その本の中で「食事編、食べることは生きること?」という章があります。
安達さんは、20代のころにお付き合いしていた方から
「前から思っていたけどね、味覚おかしいよ。」と言われた経験があるそうです。
「食」対してこだわりと敬意を持っていた彼・・・
・・・・「味覚がおかしい」という言葉には、ただ単に私の感覚がおかしいというよりも、「よいものを食べてきてないから」という含みがあった。おいしいものを知らないということは恥ずかしいことだと感じた。ちゃんとした教育をうけていない暮らしもちゃんとしていない、と言われたような気持ちになった。・・・・
とあります。
これを読んで胸が締め付けられる気持ちになりました。
安達さんのように自分の食(生き方)にコンプレックスを持ってしまい、堂々と食べること(自分の感覚を信じて表現すること)が出来なくなってしまった方に、栄養士という職を通じて、またはプライベートで、たくさんお会いしてきたからです。
いつから堂々と「食べること」は世間が認めた価値観を獲得できた人やこだわりを持った人=「選ばれた人」のものになってしまったのだろう・・・??
いつから良いと悪いでジャッジされるべき物事になったのだろう??
皆にとっての「幸せな食」とは何なのか???
本の中では、
何かを食べるとき、私たちは食べ物ではないものも食べている。食卓にある空気、目で見る色彩、匂い、笑いあうこと。
そういうものを食べ物と一緒にむしゃむしゃと食べている。
だから、好きなひとと一緒に食べるとおいしい。
と書かれていました。
安達さんは
「おいしいかどうかにこだわるのではなく、本当はただおいしく食べたい気持ち。」だったといいます。
これはおいしいんだろうか?と自分の感覚がわからず不安で人の顔色を見ながら、食べる、、、そんな環境を変化させ、否定されない安心感のある人間関係や環境で食べることで、安達さんはしだいに自分の「おいしい」という感覚を取り戻し、ご自身の快不快を大事にされるようになります。
「食べること」に不具合が生じたときに見直すのは「生きること」のほうかもしれない。
幼い子どもたちのことにも通じると思いました。
幼児教育に携わっている方に以前聞いたことがあります。
「これは体に悪いからまずいし、食べたらあかんで」という子が中にはいるそうですが(周りの大人からそう言われているんですよね)、そんな場合は環境への安心感のほうを優先してあげる、と。
何を食べるのかももちろん大切です。
ですが、まずはどうか、「これはおいしいと感じないといけないはずのものだから」と大人のジャッジから解放してあげる。
否定ばかりではない安心した環境の中で、食べて暮らして、本当の自分にとっての快不快の感覚の芽をゆっくりゆっくりとそだてていってもらいたい、と心から思いました。